やる夫で学ぶモダン・ジャズ その7

フリー・ジャズ
それまでのジャズファンの心をつかんだファンキー・ジャズに対する反動から、60年を前後してアヴァンギャルド・ジャズやフリー・ジャズが徐々に存在感を増してきます。アヴァンギャルド音楽理論に従いつつも音程や拍を意図的に正しい位置からはずす手法です。フリーはさらにこれを推し進めて音楽理論自体を無視した演奏をします。
こちらがアヴァンギャルド派の代表的な奏者、エリック・ドルフィ(バス・クラリネット)
「アウト・ゼア」

こちらが後にフリー派をけん引するオーネット・コールマン(サックス)
「ロンリ―・ウーマン」

特にオーネット・コールマンの作品は発表当初、「常識破り」としてセンセーショナルに騒がれたんですよ。でも逆に「正しい調性から外れている事で妖しい魅力が出ている」と語るファンもいます。…こればっかりは聴いた人次第ってことですが。

さて徐々に存在感を増すフリー・ジャズですが、その引き金となった人がオーネットの他にもう一人います。それがジョン・コルトレーン、この章の2人目の主役です。テナー・サックス奏者の彼は56年にマイルスのバンドに入団します。当初マイルスはソニー・ロリンズを希望していましたが、既にバンドを持っていたため、やむなくロリンズより2歳年上、マイルスと同い年の新人を起用します。入団当初、彼の演奏はあまり評判がよくありませんでした。それは技術力よりも当時テナー・サックスといえばロリンズの様な男性的な音色が期待されていたからだと思われます。
初期(57年)のトレーンの代表作「ブルー・トレーン」
 

初期のアヴァンギャルドとフリーにこれといった違いはありません。でも前者が音楽の枠組みに留まったのに対して、後者は年を追うごとに過激になっていきます。またアバンギャルドがどの時代にも少数ながらいたのに対して、フリーは当時盛んだった公民権運動に触発されたムーブメントとしての側面もあります。デビュー当時の彼はまだハード・バップのプレーヤーでした。しかしマイルスのもとでメキメキと実力を伸ばし、2年ほどで「シーツ・オブ・サウンド」という独自の演奏スタイルを築き上げます。
「ウォーキン」(58)

さてその後59年に今までの練習の成果を試す意味も含めバップの難曲「ジャイアント・ステップス」を録音します。またそれと時を前後してマイルスのモード・ジャズのセッションに参加します。そして60年にマイルス・バンドから独立、自分のバンドメンバーを集め、バップやモードを自分なりに咀嚼し、新しい時代を感じさせる作品を数多く残していきます。
「アイ・ウォント・トゥー・トーク・アバウト・ユー」 

「インプレッション」

64年にはこれまでの音楽人生を集大成するアルバムを発表します。
「至上の愛 パート3 追求」

しかし同時に彼はドルフィーと共演したり、コールマンの演奏に衝撃を受けています。ジャズだけでなくアフリカの民族音楽やラテン果てはインド音楽まで研究していた彼にとって、フリーの潮流は最早看過できない存在になっていました。そして次第に彼の音楽は荒々しくなっていきます。
@ライヴ「ヴィジル」

その後彼は若手のサックス奏者、ファラオ・サンダースをバンドに招き入れます。サンダースの荒々しく暴力的なプレーは
彼のバンドを一層過激にさせました。
メディテイションより
「ラブ・コンシクエンシス・セレニティ」

1番目の動画のソロイストがトレーン、2番目がサンダース
  
しかし彼について行けなくなった聴き手が多かったのも事実です。それは彼のバンドメンバーも例外ではありませんでした。
ドラマーのエルヴィン・ジョーンズは、こんな音楽は「詩人にしか理解されない」と言い残してツアー中に脱退してしまいます。
【参考】脱退したドラマー:エルビン・ジョーンズ

それ以後彼のバンドの内外にフリー派の演奏家が集います。コルトレーンを先頭に西洋音楽やジャズの伝統は徹底的に破壊され新しいスタイルが模索されました。
アルバート・アイラー「トラス・イズ・マーチングイン」

ファラオ・サンダース
「ザ・クリエイター・ハズ・ア・マスター・プラン」

「フリーの嵐」が巻き起こった60年代、それは時代(公民権運動やベトナム反戦運動)と共鳴しジャズ界を席巻します。しかしフリー・ジャズの栄光は67年に一旦途絶えます……ジョン・コルトレーン 永眠 享年35歳 死因:肝臓がん
その後フリー・ジャズのムーブメントは急速に衰退、フリー派が従来の理論と向き合い新しい秩序を築きあげるのは70年代になってからでした……

最晩年には穏やかな演奏をいくつか残しました。それを紹介してフリー・ジャズの章を終えたいと思います。
ステラ・リージョンより「セラフィック・ライト」

【参考】息子のラビ・コルトレーンが演奏する、父作曲の『Giant steps』