やる夫で学ぶモダン・ジャズ その10

そのうちコンサバティヴな演奏スタイルのジョージ・コールマンと、新しいことをどんどん演ろうとするリズム隊の間で軋轢が生じます。結局コールマンは前述の「フォア」のライブのすぐ後辞めてしまいます…

そこでマイルスはトニーの推薦でエリック・ドルフィーの流れをくむ、サム・リヴァースを起用。ちなみにこの時彼らは初めて日本を訪れています。
「ソー・ホワット」

この頃は丁度過渡期で東京の録音は彼らが最も「アヴァンギャルド」に接近したときのものでした。しかし彼らは既存の音楽理論を否定するよりも、「理論の枠組みの中でどれだけ自由な演奏ができるか」という事を追求していました。
そんなマイルスはリヴァース起用前から、あるテナー・プレーヤーの引き抜きを試みていました。それがジャズ・メッセンジャーズウェイン・ショーターです。
ウェインは当時ジャズ・メッセンジャーズ音楽監督をやっていて、後に新主流派を代表するような曲を次々と書きました。ブレイキーもそんな彼の曲を率先して録音しました。しかし一方で自分の書きたい曲と契約会社の求める曲のかい離に
徐々にフラストレーションを積もらせていきます。そして1964年の4月に最終録音を終え、彼はジャズ・メッセンジャーズを脱退してしまいます。
この知らせを聞いて日本から帰ってきたばかりのマイルスは大喜びします。そしてバンドメンバー全員でウェインに電話攻撃を仕掛け彼を誘います。ウェインもこれを了承、そして1964年の9月中旬、彼ら5人はヨーロッパ・ツアーに繰り出します。
「オール・オブ・ユー」

「ソー・ホワット」

斬新なバッキングでソロイストを煽るリズム隊、それに応え魔術的なメロディを紡ぐウェイン、そして全員に曲の世界観を提示するマイルス、この時期のマイルスたちをファンは
「黄金のクインテット」と呼んでいます。マイルスは新しいバンドのサウンドに満足し65年から新曲録音のため2年ぶりにスタジオに入ります。
アジテーション

「フット・プリンツ

しかしどんどん自由に演奏するウェインとリズム隊に、マイルスの志向していた音楽が次第に喰われていきます。下はバンドが完全に成熟し、臨界点に達した1967年の演奏です。>>192の演奏と比べてみましょう
「ウォーキン」
http://www.nicozon.net/watch/sm1286044
http://www.nicozon.net/watch/sm1286044
You Tubeのはノイズがやばかったので)

この様に原曲のメロディはおろか、ハーモニー、リズムすら解体し再構築するスタイルは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれています。(定義は人によってあいまいですが)キースジャレットの完全即興「ケルン・コンサート」(72)や

60年代マイルス・バンドのサイドマンが母体となったV.S.O.P.クインテット(76)が当てはまるでしょう。

この後ジャズの世界ははロックやファンクとそれまでのモダン・ジャズの歴史はここで終わります。しかしその後従来のアコースティックなジャズが再評価される流れができて現在に至ります
本当は「モダン・ジャズの歴史」だけじゃなくそこまで含めて紹介したいんですけど…後はYou Tubeなどで探してみてください!

【参考】
Love Theme From Spartacus - ino hidefumi